愛の行為よりも動機が大切

『たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。…今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13:1-13抜粋新改訳2017)』

誤解を避けるために、愛を表すことは大切です。

時には、その動機が自分のどこにあるかも、探ってみると意外な発見に繋がるコトがあるというお話です。

引用箇所は、「愛の章」と言われる第一コリント13章です。

式典などでよく引用される箇所で、聞き覚えがあるかも知れませんね。

この「愛」を何と考えるかで、大きな違いが出てきますね。

この愛という意味合いは、神の愛に繋がる愛というニュアンスです。

人間の表面上の同情などの愛よりも、もっともっとDeepな愛なのですね。

「信仰と希望と愛」と並べて、「その中で一番すぐれているのは愛」と結んでいるのは、「愛の源である存在の神」は、永遠から永遠の存在であり、それよりもすぐれた愛はないからなのですね。

その愛の注ぎを毎日味わっているのが、信仰者なのですね。

その愛を実感できないと、薄っぺらな愛を振り回してしまうことになるのですね。