捧げるのは金品ではなく… 箴言20:25
『軽々しく「これは聖なるもの」と言い、誓願を立てた後で吟味する者は、罠にかかっている。(箴言20:25新改訳2017)』
いったん献げると決めたのに、あれこれ考えて、やっぱり辞めておこうとする人もいます。
どこか、【主】と取引しようと、交換条件を出してみたりすることも、あるかも知れません。
【主】が喜んで下さるのは、心からの礼拝であり、心から献げることです。
見返りを求めて、条件をつけて寄付をするのとは、かなりの温度差があります。
新約聖書の使徒の働き5章の「アナニヤとサッピラ」のストーリーは、心を探られ考えさせられます。
【主】に対して、どのような心を向けているかは、自分自身が理解できているのですね。
持てる人にとっては、資産管理は、悩ましいもののようです。
【主】と信仰者自身の「タテの関係」が大切なのですね。
心から献げることは、他者が介入をしてはいけないコトだと感じています。
導きに応答して献げるという基本スタンスが肝要です。
教会堂を建てるとか、宣教旅行をするという理由で、献金を募ったりする事がありますが、強要脅迫的なアプローチがあるとすれば困りますね。
多く起きていることは、教会堂を建てるまでは、謙遜を装っていて、建物ができると居直って、教会員が分裂するという現象は、あちこちに散見されます。
それよりは、安全性を確保した上で、古屋でも、【主】にある交わりが積み重ねられている方が、【主】が喜ばれるのではないでしょうか?
集う方々が、祝福されていて、献堂された会堂で、【主】にある礼拝と交わりができるのがベストです。
金品を扱う所には、様々な不安が渦巻き、誘惑も大きくなります。
必要なコトの積み重ねと、祝福がこぼれ出るような所からでるものが、「真に喜ばれる香ばしい献げ物」なのだと考えています。
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