メシアであるイエス・キリストの誕生~十字架と復活 イザヤ7:13-16
『13 イザヤは言った。「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。15 この子は、悪を退けて善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。16 それは、その子が悪を退けて善を選ぶことを知る前に、あなたが恐怖を抱いている二人の王の土地が見捨てられるからだ。(イザヤ7:13-16新改訳2017)』
聖書には、原福音と言われる創世記3:15に記された人類救済の約束があります。そして、冒頭の聖句で、かつて女の子孫と言われたメシアが誕生することがイザヤによって預言されました。
「処女が身ごもっている」と記してあるのは、ほとんどの人は理解不能でしょうね。女の子孫とは、人間のアダムの遺伝子を受け継がない状態で誕生することが大切なのです。その理由は、「罪」の性質を受け継がないためです。
処女マリアを母体として選び、「聖霊によって身ごもった」と記されています。
選びの民の系図で最重要とされたのは、母体として選ばれたマリアも、養父として選ばれたヨセフも、アブラハム・イサク・ヤコブの流れで、ダビデ王を経由して、繋がっているのです。
マタイ1:1-17に記されているのは、アブラハムからヨセフに至る系図です。ルカ3:23-38に記されているのがマリアへの系図です。マリアへの系図は、マリアの名前が出てきませんが、ユダヤ式表記(定冠詞+夫の名前)によるものです。マイアへの系図は、アブラハムを通り越してアダムまで記されています。
A.D.70以降、ユダヤ人であっても、レビ族以外は、自分がどの部族かを知る術はないと聞きます。レビ族は、特別な名前を受け継いでいるようで、Levi Levy Levin Levine Leventhal Cohenなどです。
これを合わせて考えると、メシアであるイエス・キリストに至る系図が如何に重要とされているかがわかります。また、レビ族は、この後の役割もあるのでしょうね。
東方の占星術の博士が、「ユダヤ人の王はどこに居るのか」と聞かれて、時のヘロデ王は、酷くショックを受けて、自分の身を案じて、その年頃の男児を殺させたという記事もあります。
メシアであるイエス・キリストは、大工のヨセフを養父として育ち、30歳の時に、公生涯に入りました。親戚筋のバプテスマのヨハネが先駆者として、メシアであるイエス・キリストの紹介をし、洗礼を受けに来たメシアであるイエス・キリストを見て恐縮する場面もあります。その洗礼を受けると、御霊が鳩のようにイエスに宿ったのです。
メシアであるイエス・キリストは、サタンの試みにあい、理不尽な苦難を通られました。それでも、律法を全うし、罪を犯す事はありませんでした。それは、自らを唯一無二の犠牲とするために、必要不可欠な要素だったからです。
『14 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:14-16新改訳2017)』
むしろ、メシアにしかできない癒やしをしつつ、多くの人に愛を示されました。収税人のザアカイに対するアプローチやスカルの井戸での女性との対話でも、愛に溢れたコミュニケーションをしていました。当時のラビ(指導者)は、律法を犯さない「罪」から距離を置くことに全集中していました。その一例が、暗くても、避けることができるように墓を白く塗ることでもありました。イエスやレビたちの行動に、愛があるかないかは、周囲の人からはよくわかったことでしょうね。
その愛は、多くの人に受け入れられましたが、指導者層からは、嫌われていました。彼らはメシアであるイエス・キリストを亡き者にしようと何度も試みました。当時のユダヤ人には死刑にする権利がなかったので、死刑にするためには、ローマ帝国の力に頼るほかはなかったのです。
創造主である神の計画は、過越の祭の時に、唯一無二の犠牲として十字架刑になるというものです。
サタンに感化された人間が小細工をしても調整不可能なことでした。特に、イエスを亡き者にしたかったのはサタンでした。サタンは、創世記3:15で創造主である神から告げられたことを忘れるはずがありません。サタンは、自分の運命がメシアであるイエス・キリストの十字架の結果によって決するのですからね。
創造主である神は、サタンの動きも巧みに利用します。
サタンは、民衆を煽り「十字架につけよ」と叫ばして、十字架に架けるや否や、「十字架から降りれば信じる」と叫ばしたりしました。
十字架刑だけは回避したかったのですが、サタンには為す術がありません。かつて告げられた十字架による贖いの完成により、サタンの頭は砕かれることが確定されたのです。
それまで、信仰を表す方法として「罪」を覆う犠牲の動物が献げられていました。でも、今回のメシアであるイエス・キリストが唯一無二の犠牲として、創造主である神に受け入れられれば、贖いの完成です。
十字架上でイエスの死亡が確認され、兵士がヤリで脇腹を一突きにすると、全血が流れ出ました。
そうすると贖いが完成した証拠として、今まで大祭司しか入ることができなかった神殿の至聖所の分厚い隔ての幕が、上から下へ裂かれました。この幕は、人の手では裂くことができないものです。
その一部始終を見守っていた百人隊長は「本当にこの方は正しい人であった(ルカ23:47)」と証言しています。
『23 ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。24 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。26 もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(ヘブル9:23-28新改訳2017)』
創世記3:15で約束された人類救済は、AD33年頃、メシアであるイエス・キリストの十字架による死、葬り、三日目の復活で完成されました。
メシアは、ユダヤ人が困窮状態から救い出してくれる救世主として、待望されていました。
しかし、創造主である神の計画は、選びの民イスラエルを通じて、全人類に救いの道を与え、永遠の生命を確立することだったのですね。
また、創造主である神を信じる信仰者は、メシアであるイエス・キリストの再臨を待望しています。
それは、空中携挙とも言われ、遠くない将来に、信仰者の共同体であるキリストの身体を構成している信仰者を空中に迎えに来て下さるのです。
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