愛に包まれる実感 1ヨハネ4:9-10

『9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:9-10新改訳2017)』

「愛」に包まれる記憶がある人は幸せです。

人間は誰でも、母の胎内で羊水に包まれていました。でも、この記憶がある人は極少数です。

胎動が出だす妊娠7ヶ月あたりから、胎児は音を認識するようになると言われて、その頃から胎教に取り組むケースが多いようです。

その結果は、様々なようですが、母親と胎児が良好な関係性を育むことで、後の関係性も良好になると言う期待もあります。

ただ、妊娠期間に家庭環境や母胎に関わるトラブルがあると、その後の人生にも影響があるとの指摘もあります。尊い命ですから、スクスクと成長して欲しいと願います。

さて、ヨハネ伝3章には、パリサイ派のラビでサンヘドリンの議員でもあったニコデモという人が出てきます。

彼は、イエスの所にコッソリ来て、質問をしました。

イエスの活動を見て、「神が共にいる」と確信して訪ねて来たのです。イエス・キリストは【主】の第二位格ですから、共にいると言うよりも、「神そのもの」なので当然の大正解ですね。

ニコデモは、ユダヤ的に考えられた「生まれる(成長する)」段階を上り詰めた人でした。これについては、「ロゴスとラビ」に詳述されています。

彼には、イエスが示したその先が理解できなかったのです。

人間には、「肉体的な誕生」と「【主】の愛を受け入れて新生する機会」が与えられています。

つまり、「水によって生まれることは肉体的誕生」であり、「霊によって生まれることは、永遠の生命への誕生」を意味しています。

その箇所では、イエスご自身が「人の子(メシア)」であること、荒野に蛇が上げられたようにイエスも上げられること、「【主】の愛」のゆえに永遠の生命が与えられて、人に対する救いが与えられることなどが説明されました。

それでも、ニコデモは十字架によりイエス・キリストが十字架に架かるまでは、真意を理解できていたでしょうか?

十字架の後に、イエスの遺骸を引き取り埋葬したのは、アリマタヤのヨセフと、このニコデモです。

その時には、弟子たちも離散し、一部の女性のみがイエスのそばにいました。その中での総督ピラトへの直談判には、リスクが伴ったでしょう。

でも、それができたのは、「【主】の愛」の真意が理解できていたからなのでしょうね。

信仰者は、いつの時代も、この「【主】の愛」に包まれているのです。それを、より深く実感したいものです。

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Posted by dblacks