畏怖と恐怖の違い 箴言1:7
『7 【主】を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。(箴言1:7 新改訳2017)』
人生の中で、怖いモノの代表は「地震、雷、火事、親父」と言われましたが、今では、「親父」は影を潜めて「おかみさん」がさらに元気になっている世の中なのかも知れません。
これは、「恐怖」を感じる対象ですね。
本質的には、親父やおかみさんは尊敬されている要素もあるように考えています。
でも、人間関係の中でも、尊敬(リスペクト)できる相手は、一人や二人はいるのではないでしょうか?
その人たちに対して、「畏怖の念」を抱いている部分もあるように思います。
人間には、「自立」と「自信」は必要ですし、「尊厳(プライド)」も等身大として大切にしたい要素です。
しかし、自分を過小評価したり、過大評価したりしたい誘惑がやってくる時があります。
その時に、上手くバランスをとらないと、その後の自分自身が、困ることがあります。
そもそも、人間は創造主である神【主】に造られた存在であるコトを自覚する必要があると私は信じています。
この部分は、信仰に関わる部分なので、様々な考え方があることを理解しているつもりです。
聖書をベースに考えると、創造主である神【主】を認識しないと、土台を失うことになりかねません。
その【主】とは、どのような存在なのかを理解しておくことが重要です。
【主】は、人間を愛して、空気も水も備え、自由意志も与えています。人間が、選択を誤り、道を踏み外しても、元の関係に戻る道を備えて確立して下さいました。その理由は、「愛」です。
その「愛」に、応答する信仰者には、神の子の権利を与え、永遠なる生命を確約されます。
しかし、その「愛」に背を向けて、応答しない人には、肉体的生命の終わりまで、チャンスを与えています。
それでも、拒否するのならば、やがての日に、審判が降ります。
【主】の原則は、「愛」「ゆるし」「永遠なる生命」の提供が先で、それを自由意志で拒否した人には、「審判」という順序なのです。
【主】は、すべての権限を有しておられる御方です。
まさに、最大級の「畏敬の念」を感じる存在なのです。
この【主】を「知り」、その「愛」に応答する事こそ、人生での最大級のイベントです。
それは、「審判」の恐怖から逃れるというよりも、愛による祝福が先なのですね。
私は、「愛」の提示を一人でも多くの人に、感じていただきたいと願っております。
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