雑用などない 渡部和子

『この世に「雑用」という用はありません。
 私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれます。 渡部和子』

ノートルダム清心学園理事長として、また、『置かれた場所で咲きなさい』【幻冬舎、2012年】の著者として知られる渡部先生ですが、9才の時に、2・26事件で父を亡くされました。

それは、とてもショッキングを通り超え、凄惨を極めた現場だったようです。渡部和子さんは、1mの至近距離で、その一部始終を見ざるを得なかったようです。これは、彼女の生涯に影響を与えたようです。

人生の現実は、見たくないものを見せられる一面があります。その心境は測りがたいですね。

友人からの「鬼の一面」を指摘された事があるようですが、究極の理不尽を見た彼女が、そのような一面を持っていても不思議ではないでしょうね。もちろん、彼女の本意ではないでしょうし、友人の視点からは、そのように見えたと言うことに過ぎないのですね。

渡部和子さんは、若くしてノートルダム清心女子大学の学長に就任されたので、周囲のプレッシャーは相当なものだったようです。その様な中で、数々の珠玉の言葉を紡いでいかれたのだと推察します。

冒頭のフレーズは、その中の一つではないでしょうか?

「雑用」と言う言葉を無意識に使ってしまいますが、その様な用事はないというのです。むしろ、その用事を「雑」に扱う心が、「雑用」にしてしまうというのがこのフレーズのポイントです。

すごく共感できる言葉です。ToDoをリストアップする時には、雑用ではありません。でも、とりまとめてイロイロと括ってしまうと雑用化してしまうのですね。肝に銘じたいと思います。

渡辺 和子(わたなべ かずこ、1927年2月11日[1] – 2016年12月30日[2])は、キリスト教カトリック修道女 (修道女名:シスター・セント・ジョン[3])。 学校法人ノートルダム清心学園理事長。北海道旭川市生まれ。
1927年、北海道旭川市で出生。父親は当時、陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎で、53歳の時の子であった。4人兄姉の末っ子で次女[4]。父親の転勤により台湾、東京へ転居[5]。
1936年、成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。父の居間で、当時大将で教育総監だった父が青年将校に襲撃され、44発の銃弾で命を落としたのを、わずか1mほどの距離から目の当たりにした[4]。
成蹊小学校、雙葉高等女学校(現 雙葉中学校・高等学校)卒業。成績は優秀だったが、友人から鬼のようだと指摘され、「少しはましな人間になって、父のような惨めな死に方はしたくない」との思いから受洗を決める[5]。
1945年、18歳でキリスト教(カトリック)の洗礼を受ける。聖心女子大学に進学し、学生自治会の会長を務めた[5]。1951年に同大学を卒業し、上智大学国際学部事務局で文書作成のアルバイトをしながら、1954年上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了。
1956年、29歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。31歳でアメリカボストンの修道院へ派遣され、修道女会の指示により1962年6月にボストンカレッジ大学院で教育学博士号を取得したのち帰国、同年9月に岡山県のノートルダム清心女子大学教授に就任。1963年に36歳という異例の若さでノートルダム清心女子大学の学長に就任。歳が若いだけでなく、同大学における初の日本人学長であり、地元とは縁のない人物の抜擢であったことなどから古参職員の反発にあう[6]。
1977年にはうつ病を患う。1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど多方面で活躍。著書も多数。1990年に学長を退任し同大学理事長となるまで、長年にわたり教壇に立ち、学生の心を支え指導する。
1990年にはノートルダム清心女子大学の名誉学長、及びノートルダム清心学園の理事長に就任。
1992年~2001年には日本カトリック学校連合会理事長に就任した。

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Posted by dblacks