清貧を装うカラクリ
「清貧」が美徳とされる雰囲気があります。
多くの牧師は、会衆の献金で生活が成り立っているという前提があります。
ですから、贅沢と見なされると糾弾される恐れを懸念します。
ところが、現実は、見栄も張れないギリギリの生活をしている牧師も多くいるのです。
ある信者に、もし、自分が通っている教会の牧師が、高級車や高級品に囲まれた生活をしていたら、どのように感じるか聞いてみたことがあります。
その答えは「引いてしまう」というモノでした。
神の祝福が、豊かであるならば、困窮することはないと考えるコトもできますが、現実は色々なバランスがとれていないようにも感じます。
もう一つの視点は、「清貧でなくてはいけない」という強すぎる意識が習慣化して、困窮が現実化しているのかも知れません。
神の祝福は、常に身近にあると考えれば、手を出せば受け取れるということですね。
しかし、「清貧でなくてはならない」という意識が、手を引っ込ませるという要素にもなり得るのではないかということです。
かつて、マナを必要に応じて拾った民のように、自分に与えられているマナを遠慮や卑下することなく感謝していただきたいですね。
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