希望と期待 箴言13:12
『期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木。(箴言13:12新改訳2017)』
「一生のお願い!」と何度言われたことかと嘆く親ごさんがいました。
子どもが困る度に、このフレーズを繰り返して、同じようなトラブルをくり返し、結局、親が後始末をつけたというのです。
「親の欲目」と言うのでしょうか?
「今度こそは!」という期待を見事に裏切られたという事例です。
経済が右肩上がりの時代に、「良い学校を出て、良い会社に就職すれば、一生安泰」だと言われました。
仮に、そうであったとしても、人生には次の期待が待っています。
会社に入れば、良い人と結婚して、良い子を授かって、良い学校になどと、期待(欲)には際限がありませんね。
一方、自分が欲しい期待だけ、叶わないこともあります。
自分だけ置き去りにされている孤独感に苛まれるのか? やがて、心を病んでしまう可能性が高くなります。
少しでも、望みが叶えば手放しで喜びたくなります。
それは、まるで「生き生きとした元気な葉とたわわに実った果実をたたえた、いのちの木のようだ」と記されています。
期待(欲しい)ばかりではなく、「いのちの木のそばにいる」生き方があるのです。
それは、自分自身の信仰で、そのように決断することです。
期待ばかりの人生に別れを告げて、自らの意志で、信仰の歩みをしていくのです。
期待をする人生は、知らないうちに自分に規制をつくっていることもあります。
それは、「○○があれば」と期待して、それが叶っても、今度は「○○がなければ」などと、目先の期待が揺れ動いていき、期待に翻弄され続ける懸念があるからです。
期待に希望を置く人生を選択するのも、いのちの木の選択をするのも、自分次第です。
「いのちの木の選択」は、「永遠の天への希望」に繋がっていくのですから。
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