神と王の違い 箴言25:2

『2 事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。 箴言25:2新改訳2017』

「事を探るのは王たちの誉れ」について考えてみます。

この箴言を記しているソロモンは、【主】に金銀ではなく知恵を求めたことから、引き継いだ王国が盤石となり、多くのことを探り、その知見を伝承する役割を担っています。

権威を示すことは、難しいテーマでもあります。多くの御用学者をも抱えながら、その知恵を活用することも、王としての地位を保つために必要なことなのでしょうね。

ただ、ソロモン王の結論は「空」でした。人間が、極めたと思っても、有限の領域なのです。多くの財宝、多くの妻や妾などを抱えて、絢爛豪華な宮殿暮らしをしていても、まるで、刑務所暮らしの囚人が「畳の目」を数えるのさえ飽きるような空しい心境に至ったのかも知れません。

創造主である神【主】が造られた世界を突き詰めると、有限の人間という限界を突きつけられる一面もあると思います。

自然界が不思議に満ちているのと同時に、聖書の世界も不思議だらけです。その中心である「紅の糸」を見出せれば、信仰者として永遠の生命を獲得し、平安を得ることができます。

聖書の理解不能な部分は、人間の知恵だけで解明できるとは、私は考えていません。「そうかも知れないなあ」と考えていることは、信仰者が引き上げられる時に、【主】によって、種明かしがなされることを楽しみにしています。

それこそ、「事を隠すのは神の誉れ」の部分です。

奥義とも言われますが、それは、ある程度の輪郭を理解した上で、それぞれの信仰によって受け入れるしか方法がないのです。

メシアであるイエス・キリストを聖霊によって妊ったマリヤは、御使いのお告げを信仰によって受け入れました。ヨセフは、聖霊によって妊ったマリヤを受け入れるように迫られました。信仰による解決策しか無かったのです。

時代は変わっても、創造主である神【主】と信仰者の関係は、同じようなイメージです。

迫害で殉教する信仰者もいます。これから後の時代も、命がけの信仰者は登場します。

すべて折り紙付きで信じるなど、いつの時代にもないのですね。それがあったとしても、信仰と呼べるかどうかは疑わしいですね。

その理由は、【主】は、幾つもの時代を通じて、「愛のカタチ」を示しながら、その愛に自由意志の信仰で応答する人間を待っていらっしゃるのです。

私が考える【主】が事を隠す理由は、平等にチャンスを示すためなのではないかと考えています。

本当の宝物は、全財産をかけてゲットするように、福音書にも示されています。それは、真珠であったり、畑であったりするのですが、そこに埋蔵されているのは、人間の目の色が変わるような大判小判の類いではなく、永遠に朽ちることがないホンモノのお宝なのでしょうね。

肉体的生活の一つの修行は、ホンモノの宝を探す旅でもあるのではないでしょうか?

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Posted by dblacks