社長はエラくない 本田宗一郎

『社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。 本田宗一郎』

あの本田技研を創業した本田宗一郎さんのフレーズです。

油まみれの作業服で工場にいたら、誰が社長なのか区別がつかないかも知れませんね。

昔の夜の街は、「社長」か「先生」しかいませんでした。

それは、客引きが大活躍していた時代の話です。

飲み屋街で、どこかで楽しいひと時を過ごそうと流している人に対して、機嫌良く話しかけ、誘導するのです。

「ヒラ」の人でも、「社長」と声がかかれば、機嫌が良くなり、財布のヒモも全開になるかも知れません。

大らかな時代には、その様なことがありました。

しかし、仕事の現場の社長は、適確なリーダーシップと威厳ある存在が決め手になります。

本田宗一郎さんは、出来上がってナンボですから、祭り上げられることよりも、現場が一体となって良いものを仕上げる方が大切だったのでしょうね。

社長が命令を出して、最終的な責任もとるという事を徹底していたのでしょう。

最近、良く聞く話は、社長は利益だけを追求して、責任は誰かに押し付けるという傾向です。

グローバル化してきた世の中での大きな変化なのでしょうか?

その中で、仕事を進める社員達の心痛は、察するに余りあります。

リーダーは、リスクを許容して、責任をとる立場ですから、想定が甘いとあちらこちらに影響が出てしまいますね。

部下達は、仕事だけでも「エラい目」をしてしているのですから、偉い社長の機嫌を取るまでの気力は出てこない時代なのかも知れません。

「精一杯やってくれ。結果の責任は、私がとるから」なんて言葉聞いたら、痺れる部下も増えるでしょうね。

かっこつけるためじゃなく、本音で聞こえることが大切です。

責任のとり方が問われる時代に、どのような責任のとり方が適切なのかを議論する必要もありますね。

本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、(1906年(明治39年)11月17日 – 1991年(平成3年)8月5日)は、日本の実業家、技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。位階は正三位。
(中略)
1948年(昭和23年) – 二男・勝久誕生。本田技研工業株式会社を浜松に設立。同社代表取締役就任。資本金100万、従業員20人でスタート。原動機付き自転車を考案して二輪車の研究を始める。
「本田技研工業(昭和23年設立)」の東京進出について、当時金融取引をしていた静岡銀行浜松支店へ具体的な構想を持ち資金的援助を期待して訪れた。応対に出た静岡銀行の融資審査部長へ本田宗一郎が東京進出に多大な夢や期待をプレゼンしたところ、「東京進出なんて、貴方、会社を潰す気か?」と1つ1つ数字を挙げながら、当時新興の中小企業だった本田技研工業がいかに中途半端な会社かを説明され、これに激高した本田宗一郎が「貴様に俺の何が判るか!! 2度とお前んとこには頼まん。」と捨て台詞まで吐き、銀行を飛び出した。本田技研工業はこの出来事が切っ掛けで静岡銀行との取引を解消し、現在に至るまで取引が行われていない。

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Posted by dblacks