信仰の優先順位 2テモテ3:14 ピリピ3:16 内村鑑三も悩んだ
『14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、(2テモテ3:14新改訳2017)』
信仰は、何をどのように信じるかです。その為の知識も必要ですが、情報量が適度でないと矛盾だらけで、信じる気持ちが揺らぎます。
雑多な知識が、自分の許容範囲を超えると混乱状態になることもあります。
私が、オススメしているのは、「【主】の愛」の核心は「どこ」なのかに焦点を当てるという考え方です。それは、「人間の救済」であり、「福音の三要素を受け入れる」と成立します。その瞬間、「聖霊が内住」し、「神の子」とされ、「永遠の生命」が始まるのです。
信仰の大先輩である内村鑑三も葛藤を抱えていました。今日でも、同類の葛藤で悩んでいる人は多いですね。
内村が真の意味での回心を体験するのは、一八八五年(明治一八)に米国のアマースト大学に留学してからのことである。 総長のシーリーは、内村の自力本願的な信仰の姿勢を見て、およそ次のようにアドバイスしたと伝えられている。
「君がしていることは、幼子が植木を鉢に植えて、その成長を確かめるために毎日その根を抜いて見ているのと同じだ。どうしてそれを神と太陽に委ねて、安心してその成長を待たないのかね。自分の内を見るからいけない。自分から目を離し、十字架の上に君の罪を贖われたイエスを仰ぎ見れば よいのだ」この言葉によって、内村はキリスト教の救いは自力本願ではなく、「恵みと信仰による」ものであるこ とを悟ったという。(日本人に贈る聖書ものがたりⅣ諸国民の巻223-224pより引用)
救いは、【主】によって備えられためぐみ(ギフト)ですから、人間の自力で到達できません。人間が自力でできるのは、自分の自由意志で「【主】の愛を信じて受け入れる」事ですね。
また、信仰者は、「肉体的生命」と「永遠の生命(霊的生命)」に生きることになるのですが、「他力である霊的生命からエネルギーの供給を受けて、肉体的生命を自力でがんばれる範囲を精一杯努力する」というイメージでしょうか?
人間として、肉体の限界への挑戦というニュアンスもあるように考えています。
「学んで確信したところにとどまっていなさい。」というススメからは、「学びのための学び」ではなくて、「確信して実践するための学び」の必要性を感じます。
『16 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。(ピリピ3:16新改訳2017)』
信仰者の究極的なゴールに向かって、自分の足で踏んで到達した所を基礎として、信仰の歩を進めることが大切なのですね。
自分の信仰の状態は、平安の実感度によって確認できます。
平安は、嵐の中でも、「【主】と共にいる実感」によって、もたらされるのです。
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